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ひたすら、ポドゴリツァに着くのを待つ。
結局、遅れてくれとの願いもむなしく、運ちゃんの爆走で定刻の3時に着いてしまった。
ポドゴリツァのバスターミナルは暗かった。一応待合室は解放されていて、ありがたいことにwifiも使えた。
写真では明るそうに見えますが割と薄暗いです。
先にサラエボまでのバスチケットを買っておいた。構内には大人しいが野良犬も居た。さすがに海外で触る気にはならんが…。
ひたすら、ベンチで待つ。
同じように早朝の便に乗ると思わしき人たちと共に・・・
まずベンチを占領して寝てるホームレスが二人、気だるく疲れ切った顔でタバコを延々吸っているブロンドのおばちゃん、若い兄ちゃんもおっさんもいるが、なにせ真夜中。皆やる事もなく疲れ切ってバスを待っている。
wifiが通じてまだ救われた。場所が場所、時間が時間である。安全を考えるとうたた寝もできず、気が全く抜けない。
外では酔ったにいちゃん達が騒いでたり、トイレは屋外、しかも、地下。有料。
夜中に行く勇気はなかった。
結局朝行ったが、薄暗いわ、レンガ作りだわ、「あっこれラクーンシティでみたことある」状態である。
↑トイレの入り口。朝だからまだ良かったが、真夜中はほんとに異様な雰囲気だった。
受付の死んだ目のおっさんに30セントを渡して使ったが、有料ならもっと綺麗にしろと言いたい。
朝6時、構内のカフェが開いた。
前夜から起きっぱなし、自販機でコーヒーは飲んだが何も食べていなかったので、メニューで朝ごはんのところからプレートを頼む。
しかし、時間が早すぎたらしい。今はドリンクのみと言われた。
何時からが朝なんだ、ここは…
とりあえずターキッシュコーヒーを飲み、時間が過ぎていく。
↑目覚ましのコーヒー。美味しかったです。
どのバス停かがよくわからず、スタッフに聞く。来たのは、もうバスというよりバンのような小さなバスであった。
これで7時間…先が思いやられた。
リュックは膝の上に置いた。荷物を預けると費用を取られるし、途中で無くならんとも限らないからである。
しかし、きつい…めちゃくちゃ狭い車内で、膝の上に7キロのリュック。
殆ど石抱きの刑である。
たまに軽く持ち上げて、足の血流を止めないようにしていた。
疲れ切っていた。
休憩も1回目は立ち上がれなかった。
その後、ずっと同じ、渓谷のようなところを進む。暇つぶしに写真撮ろうかとも思ったが、似たような景色なら富山でも見た。やめた。
やがて、国境。
暑い…巧みに座っていたままパーカーを脱ぐ。
ボスニア入り。
携帯は使えない。
国境の脇道に地雷、立ち入り禁止のドクロマークが。
↑バスが運転ミスったらそのまま死ぬのかぁ・・・などとノーテンキかつ冷静に考えられるくらいには麻痺ってました。
そこからが地獄だった。
クーラーは効かず、車内は蒸し風呂。相変わらず狭い車内、道が悪く、崖が近くてもスピードを緩めないため右左と揺れる。
舗装はされているはずなのだが、信じられないほど揺れる。
何とか耐え、休憩ポイントへ。
やっと足を伸ばせた…水はまだあったが、補給したかったので近くのショップへ。
開いてない…仕方ない。サラエボまで耐えるしかなかった。
確か休憩所らしきグリルにビリヤード置いてあったり、有料のくせに便座なかったり、まあまああれなところだった。
休憩終了社内はさらに暑く、道は悪くなる。
水を飲んでも汗がジワリと出る。
もう嫌だ、早く着け早く着けと祈る…
時折脱水と睡眠不足と疲労なのか、落ちる瞬間が何度かあった。
隣の席のマダムにぶつかった時は謝った。
そんなこんなで着いたのは14時過ぎ。
サラエボのバスターミナルは二つあり、市街地から10キロほど離れたここと、サラエボ駅に隣接した二箇所がある。
とりあえず喫茶店でコーラを飲む。
生き返る…。
バスも来なさそうなので、タクシーを捕まえる。ユーロが使えるか聞いて、街中まで10ユーロ。
サラエボの街は雰囲気が広島に似ている気がした。なんというか、パワーが。
ベオグラードやプリシュティナが殆ど紛争の形跡を感じないのと比べて、サラエボは目につく。
砲弾、銃撃を受けた壁の穴…
チェックインを済ませ、街を歩く。
通貨はマルク。1マルク=70円ほど。そこまで安くは無くなってきた。
50マルクほど引き出し、とりあえず近くにあったサラエボ包囲の時の写真ミュージアムに行く。
ビルの二階だったのだが、入口の扉を開けて、なんというか重い雰囲気に飲まれてしまった。
長崎の時も、ひめゆりの時も、阪神大震災の記念館もそうだったが、あの手の建物で中が暗いと、もう血の気が引いて足がすくむ。
悲惨な記憶で、2度と繰り返させない、又は再発防止というのはわかる。
しかし、どうしても先に、雰囲気に飲まれて恐怖心が生まれてくる。ここから早く出たい、となる。
今までこの手の記念館でフラットに見られたのは台湾の2.28記念館だけだったように思う。あそこは中が白基調で明るく、悲惨な写真もあったのだが、図書館のような雰囲気で、フラットな気持ちで見ることができた。
話を戻す。言い訳がましいが、まずその雰囲気でダメだった。
そして、目に入ったのは大きなパネルにされた、犠牲者の手首と時を止めた腕時計の写真だった。
もう、無理だった。踵を返し、ビルを後にした。
犠牲者や受難した人の気持ちを知るために、必ずああいう重い雰囲気にして保存しなければならないものなのだろうか?
大多数の人の感受性はそこまで鈍いものなのだろうか?
悲惨な思いを伝えなければという思いは、強すぎるとプロバガンダになりはしないだろうか?
僕個人の希望としては、悲惨な記録や記憶ほど、もっとフラットに、犠牲者の事や体験記を受け入られるような心の状態を作ることができる雰囲気のミュージアムであってほしいという思いがあった。
サラエボには紛争のミュージアムが確かに多い。
様々な思いが去来した。
途中でパン屋に入り、大きなサンドイッチを食べた。
下ろしたばかりで50マルク紙幣しか持っていなかったのだが、品のいい、優しい笑顔の女性マスターは快く受け入れてくれた。
セサミの練り込まれたパンに挟まれたゴーダチーズ、大きなトマト…とてもボリュームがあったが、よく考えれば今日初めてのちゃんとした食事だった。とても美味しかった。
携帯の充電も切れかかっていたため、一度宿に戻った。
チェックインの時点で市内の観光地のマップはもらっていたから、それを見ながらもう一つの楽しみである古着屋を探すことにした。
この旅を始めてから気付いたことがある。
帽子(ハット)やサングラスのサイズがピタリなのである。
日本だと大抵の場合小さく、帽子などは頭が入らない、サングラスはレンズが小さかったり、幅が合わなかったりするが、こちらではほぼそんなことはない。
サラエボには古着屋が多かった。チェーンなのかわからないが、「Jordan」というショップが多くあった。時間が遅かったこともあり、既に閉まっている店も多かったのだが、いくつか回ることはできた。
二店目のJordanで、メキシコのマックのTシャツと、メタルバンド・マノウォーのTシャツを見つけた。
そこそこ年季が入っている。オーバーサイズでサイズ感も完璧。
二着で850円ほどであった。
良い買い物だった。
JordanにはH&Mの古着が目についた。大体、700〜1400円程度だった。
宿に戻り、近所で一杯飲もうかと思ったが、繁華街で週末なこともあり賑やか。
迷ったものの、なんとなく飲んで騒いでる楽しそうな人たちを横目に宿へ戻り、ぼーっとしていると同室のベトナムのカップルに話しかけられて、少し話した。
その後は結局、何もせず就寝。ハードな1日だった。
↑ヨーロッパ旅行中、割と食べることが多かったご当地アイス。これも美味しかった。
↑なぜか壁にTAME IMPARA(オーストラリアの世界的サイケデリックロックバンド)の落書きが・・・